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神話の火種は残っている


ヴィーコは「太古の異教徒の人々は、生まれながらにして神学詩人であった。」と言いました。 ――危険をおかしてまで言った、彼のこの言葉を我々は、しかと、受けとめねばなりません。 私は、この言葉をかみしめ、かみしめて、神話研究に励んできました。 ――命がけで言っている言葉というものは、人の魂を根底からよびさましてくれる力があるのだと思います。

この言葉をよく考えてみますと、太古の人々の心は、けがれを持っていなかったという事、それと自然と一つになっていたという事がうかがわれます。 ところが人は、時代が下がるに従って知的になり、素朴さを失ってきました。 それが一つのけがれであるとも言えます。すると現代人は太古の人々のようになれないのでしょうか。 魂の中から、心の中から、命の法を見つけることができないのでしょうか。

私は考えました。……(我々の心の中には「無欲」とか「素朴」とか、そういうすなおなもの、透明なものがまだ十分に残っている。 これさえあれば神学詩人にかえれる!)と。なぜなら、毎日昇る太陽を見て、気持ちが明るくなれるし、時には、太陽に向かって手をあわせる事もあります。 また月を見ても星々を見てもそういう気持ちになれます。 それは心の中に神学詩人が住んでいるという事です。

また、我々は知的に、地球が動いているので太陽が昇ってくる様に見えるのだと知っています。 しかしそんな知識は横において、やはり太陽が東天から昇ってくるのだとして、それを迎えます。 それは心の中にまだ詩情がのこっていて、心にまことの「法の調べ」が生き通しているということのあかしなのです。 どんな人でもその火を消すことは出来ません。人はまだまだ素朴で純情なのです。

現在、世の中はせちがらくなってきていますが、それでもどこの国へ行ってもすごく素朴で無欲な人に出会う事がしばしばあります。 そしてその度にはっと我に返らされ、素朴と無欲という事の大切さを思い知らされます。そんな時、つい「神話的な人だなぁ……。」と口に出てしまい、 (今時こんな人は少ない。)と、心の底から感心させられます。

さて、今ここでその「神話的な人だ、今時こんな人は少ない」といったその言葉を分析してみましょう。 何気なく口に出してしまうその言葉を……。これは「素朴」という事と、「無欲」であるという事は、神話的なことだと知っているからです。 我々は、神話とは何か……と正面から問われると、何と答えてよいか少々まごつきます。 それなのに神話的な人というのは、素朴で無欲な人のことを言うのだと、心の中でちゃんと知っているのです。 だからそう言えたのです。

それから考えてみますと、我々の心の中には、まだ神話という火種が残っている、残っているから知っていたのだ、と言えます。 これは――太古の人々が生まれながらの詩人であったというその火種をもっているという事と、太古の人々のようになれるという事です。 だからその素朴と無欲の火をかき立て、そしてそれに従えば、心の中にある「法」が目をさまし、人間の生活が明るくなってきます。 そういう神話的な人々がふえれば、明るい社会が生まれてきます。そうすれば、これまでの人類の歴史を神的で遊戯的な神話的な方向に変えて行けます。

神話を忘れると人類は滅びます。神話は原始の法の調べです。その原始の法の調べは――神話は、今も人間の中に息づいています。