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日本哲学


ハイデッガーは「待つことは、そのものの中に入ることである。」と言っています。これは興味深い話ですね。

日本には「TOKONOMA」(床の間)と言って、部屋の一部が少し横長のL形の形で凹んでいる部分があります。 その「TOKONOMA」は、絵や書をその壁につるして掛けるようになっています。そしてその下の所に花が飾られてあります。 人はその「TOKONOMA」の前に座り、そこに吊るされている絵または書を眺めて、心を平和にするのです。 ・・・無論きれいな絵なら、きれいなその絵を眺めて、きれいだなと思い、そのきれいさに見ほれることもあります。 また書ならば、それを読むこともあります。しかしそれよりもっと優れた見方は、その前に座り、その吊るされてある書、または絵と向かい合うのです。 何も考えず、考えや思いを停止して、ただその前方の物を見ているだけ・・・それと向かい合っているだけ・・・という眺め方、座り方をするのです。

そこから受ける何かがあるのです。そうしていると、何かが自分に実ってくるのです。 それは何であると、言えるようなものではありません。しかし何かを感じる・・・意識を停止し、向かい合ったそのそこから、 何か本当のものが、自分の中に出来てくる・・・流れ込んでくる・・・それを感じるのです。

日本には禅というのがあります。これも知恵で何やかやと考えないで、宇宙と一つになる静かな状態です。 また、日本には日本庭園とか、禅寺の石庭というものがあって、それは有名で世界にも知られております。 とくに有名な庭園は、金沢の兼六園、水戸の偕楽園、岡山の後楽園と言って、立派な庭があります。 また石庭では、竜安寺(京都)の石庭その他立派な石庭がここかしこにあります。奈良の依水園の庭もその一つです。 その石庭で僧や一般の人が、その石庭を眺めて自己の本性の中へ・・・宇宙の中へ入ろうとします。 前面に広がる石庭を眺めて、禅の心を得よう―――それも「TOKONOMA」を見るのと同じように、何も考えず、その石の庭を眺め、 それと向かい合う―――それだけの修養――訓練です。そこに、入ってもゆかず、ただ「待つ」のです。 即ち「向かい合う」だけに留めておくのです。これは相対を消して一つになっている状態です。 その一つの中に零の状態があります。零はすべてと連鎖している状態ともいえます。

仏陀はこのように、相対的な自己を消すこと、無心になること、無我になること、何ものにもとらわれないことを教えました。 そして宇宙のすべてと一つになることを教えられました。

日本には、その仏教の教えが入ってくる以前から神道というのがありました。今もそれは消えることなく、日本人の精神となり、魂の栄養物ともなっております。 仏教には仏陀が教祖で、彼の教えというものがあります。しかし日本神道には教義というものがありません。 宇宙を創った神ということでなく、宇宙そのものを神としたようなもの、いや神でもない・・・そんな名称を持つもの・・・神格をもつものでないもの、 即ち宇宙を貫き通している霊の(ひびき)を礼拝し、それと向かい合い、自然の中にあり、すべてをゆずる、すべてを受け入れる、すべてを捧げる、 その音楽的リズムの中に身を置くのです。そして―――それをやわらかい静かな透明な踊りのリズムに変えてゆく、それが日本神道です。

「日本神道とはどんなものか」という質問に、神道のある司祭が「イデオロギーなどないと思います。私どもに神学はありません。私たちは踊るのです。」と答えましたが、その通りだと思います。 ―――それはやはり感じとる世界であり、宇宙は論じ合うような品物ではないということです。 向かい合うこと、待つこと「待つことはそのものの中に入ることである」・・・無意味である宇宙、無目的である宇宙を直観すること、 そこに透明なる波のひびきを感じ、礼拝と舞と踊りへと移行してゆくのです。肉体が自然にゆれてきます。

人間は普通、体がゆれないのは、合理知がそれをとめているからです。生き物はいつも生命の鼓動が波打っています。 だからゆれるのが当然なのです。物も霊も、神があるなら神もすべて悠久なる波動のかたまりですから、ゆれているものなのです。 そしてそれが互いにあいさつを交わしながら流れ、消え、生成してゆくのです。これは音楽です。芸術です。悠久の歌です。 透明なるその音楽の中に身を置き、詩と神話を無言のうちに全身に浴びる道です。